2017-10-17

撮影哲学

目指す風景写真はいつも本質。
表の裏。
裏のようで表。

ビルに落ちる稲妻の閃光なら伸びる影、そして雷雲の中。

美しい大輪の花火ならそれを愛でる眼差し、花火師の眼差し。

迫る嵐なら雲や揺れる木々や波飛沫でなく揺れる草、色を失った街。

群れた蛍と美しい川や森なら、蛍のいる原風景の刹那を。

美しい桜並木ならざわめきのない春暁、 夢のあとさき。


絵画のように計算されて写された寫眞は、広告だけで十分。


* * *

仕事では完全にコントロールされ、キャスティングされたものを顧客の満足するよう、経験と技術で演出を行って、撮影する。
建物、製品、日本庭園などの風景、すべては見た人の印象を、あるベクトルに向けてコントロールするような写真が広告写真であって、いわゆる商業写真。

美しい風景や、列車、人を撮る時、「自分が満足するような写真」を撮っていると、それは「自分という顧客に向けた広告写真のお仕事」に過ぎない気がするのです。
それはそれで、技術、運、キャスティング能力、根気、時には時間とお金もかかるけど、やはり、「自分という顧客に向けた広告写真のお仕事」という商業写真の枠に入ってしまう気がするのです。

美しい山頂からの景色、美しい花火の景色、躍動感あふれる祭りの景色、美しい花や昆虫の景色、紅葉の中走る汽車。
――撮った写真に対しての評価が「写真を撮るのが上手」といわれる写真は、風景だろうが物撮りだろうが、ポートレートだろうが、どこかで見たような、計算された商業写真じゃないだろうか。
実際に商業写真として成功した写真(風景や被写体では運にも左右されるだろう)が頂点に位置するもので、特にアマチュアであれば商業写真で飯を喰う目標がなければ、商業写真「風」の写真を目指すことに何の意味があるんだろうと想うのです。

だからこそ、何か「上手な写真」や「キレイな写真」として、ありふれた完成された画を目指すのではなく、自分の表現したい世界観や哲学で写真を撮って欲しいと想うのです。


特にこの誰もが写真家のような時代には。



※もちろん、商業写真はちゃんと撮ります!!