広島の湯来町にある湯之山明神社にふらりと行ってみました。(※写真は同明神本殿)
湯之山明神社は大同弐年(西暦807年)、和田感応山麓慶蔵院境内に鉱泉が湧出したところから脈々と続く湯治場で、宝永四年(1707年)には宿屋が作られ、今も湯之山温泉として小さな温泉街があります。湯之守神とされ、今よりおよそ200年前、琵琶法師が湯治をし、目の病が完治した際に四面奉納された琵琶が今も拝殿に残っています。
(写真は四面奉納された琵琶)本殿、拝殿と共に湯治場の建物も国の重要有形民俗文化財ですが、湯治場は「旧湯治場」とされ、今は使用されていません。しかしながら、寛延元年頃からの建物は神聖さを失っていません。今も旧湯治場に湧き出しており、それを現在の湯治場へホースでつなげているようです。
※現在の湯治場は旧湯治場のやや下に設けられています。
――(以下、同由緒より)今を去ること約1200年の昔、広島県佐伯郡湯来町和田の和田感応山麓慶応蔵院境内より湯が湧出しました。人々はその湯を尊び、湯元大明神として社を建立し崇敬しました。以降、湯の絶えることはありませんでしたが、1700年代に入り、特に湯の湧出量が豊かになりました。
(写真は旧湯治場)その噂は、広島藩内はもとより、他国にまで広まり、多くの人々が御神徳を得るために参拝、入湯しました。霊泉の御神徳は顕著であり、「拝殿に琵琶四面を掲ぐ琵琶法師此湯に浴して眼明かに業を改て宝前に残す」(都志見往来日記)など、多くの御神徳を人々に与え、病気を平癒した記録が残っています。
現在の神殿、拝殿は寛延弐年(1749)に藩主浅野吉長公により藩事業として再建計画され、寛延参年(1750)竣工、同年霜月(拾壱月)十日に吉長公が社参し、鉄灯籠・金幣などを寄進するとともに遷座祭を執行しました。